ねぎ

年表

紀元前

原産地は中国西南部で、紀元前より栽培されており、『礼記』にも記録がある。


6世紀

『斎民要術』(530年)によると、既に冬ねぎと夏ねぎに分化しており、その後、華北では太葱群、華中・華南では細葱群に分化したとされる。


奈良時代

日本では、『日本書紀』(720年)に記載があり、朝鮮から奈良時代以前に伝来したとされる。


平安時代

『延喜式』(967年)には栽培方法が書かれ、主要な野菜の一つとなっている。

なお、橋の欄干などにみられる「擬宝珠(ぎぼし)」は、ネギの花であるネギボウズをかたどったものである。

擬宝珠


16世紀

16世紀以降、ヨーロッパにも伝わったが、広まらなかった。


江戸時代中期

この頃、「越津ねぎ」が栽培され始める

この頃、現在の愛知県津島市越津町周辺でねぎが栽培され始め、当時は徳川幕府への献上品となっていた。


江戸時代後期

この頃には、「下仁田ねぎ」は栽培

下仁田ねぎの由来は不明だが、1805年(文化2年)11月8日付の手で、大名旗本から名主宛にねぎ輸送の依頼がなされており、この頃には下仁田でねぎが栽培されていたことが伺える。
(そのため、下仁田ねぎは「殿様ねぎ」とも呼ばれる)


1909年(明治42年)

この年、宮城県仙台市の永野一がネギの優良品種の導入と育成を行う

この改良の過程で、「曲がりねぎ」を作り出す


2003年(平成15年)

この年、山形県で「平田赤ねぎ生産組合」が立ち上げられる

平田赤ねぎは、山形県酒田市で細々と作られていた在来種であるが、この年、「平田赤ねぎ生産組合」が設立され、増産化が図られている。


参考

  小崎格他監修「花図鑑 野菜+果物

favicon-book成瀬宇平「47都道府県・地野菜/伝統野菜百科

  JA愛知北「越津ねぎ

  下仁田町「「下仁田ネギ」について

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