関東軍特種演習

概要

 関東軍特種演習は、1941年(昭和16年)7月に行われた関東軍の大規模演習です。

名 前関東軍特種演習 (かんとうぐんとくしゅえんしゅう)
別 名関特演
区 分軍事
期 間1941年(昭和16年)7月
場 所満州(現:中華人民共和国東北部)
時 代昭和
備 考

内容

 関東軍特種演習(略称:関特演(かんとくえん))とは、1941年(昭和16年)7月に行われた関東軍の演習である。
 演習といっても実際は、6月22日にドイツがソ連に開戦したことを受け、ソ連への侵攻を狙った満州への兵力増強であった。

 兵力増強により、85万人もの兵力が集められたが、南方進出により、対ソ侵攻は断念され、この後、逐次抽出が行われるようになる。


年表

1941年(昭和16年)

6月18日 独ソ戦が不可避となる中、大本営陸軍部は南北両準備陣に基づく充当兵力を策定


6月22日 大本営陸軍部は動員等の日程をまとめる

【第1段階】警戒態勢
 在満州12個師団、在朝鮮2個師団、内地2個師団、計16個師団
  7月5日 動員下命
  7月20日 輸送開始
  8月24日 集中完結

【第2段階】北方進攻態勢
 上記に加え更に、内地5個師団、中国戦線から4個師団を増強
  8月10日 開戦決意
  8月29日 北支の2個師団集中完結・作戦開始
  9月5日 内地からの4個師団集中完結
  10月中旬 作戦完了


6月22日 ドイツがソ連に侵攻(独ソ戦開始)


6月26日 関東軍は、参謀長名で「関東軍特種演習」(略称:関特演)の秘匿名称を使用することを示達


7月2日 御前会議で「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定

独ソ戦が開始される中、規定方針通り、南部仏印進駐を行いながら、同時に対ソ侵攻準備を密かに進めることが決められる。


7月4日 陸軍大臣・東條英機が動員を裁可

陸軍軍軍務局に反対論がある中、大本営陸軍部第一部長・田中新一の説得で、東條英機は動員を裁可


7月7日 関特演動員が下命(第101号動員、7月16日に第102号動員)

動員完了時の関東軍の総兵力は、兵員85万人、馬匹22万頭の大兵力となる。
(ただ、侵攻に必要な砲兵・工兵の増加は少なく、軍需物資は不足していた)

急遽の大動員のため、90万トンの船舶が追加徴用され、国内では道府県を跨ぐ移動が困難となる。
(このため、第27回全国中学校優勝野球大会、第15回都市対抗野球大会が中止)


7月28日 南部仏印進駐

これに対し、アメリカは日本資産の凍結、対日石油禁輸を実施


8月9日 大本営陸軍部は「帝国陸軍作戦要領」を策定

北方進攻を正式に断念


参考

  「歴史読本」編集部『関東軍全史

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