概要
河内木綿とは、糸太で地厚であり、耐久性に富んだ大阪・河内地方で生産された木綿である。
農家では、自家産の綿・手紡糸を用いて、手織されていた。
年表
江戸時代初め
いつから河内で木綿栽培が行われたかは不明だが、この頃には木綿栽培が行われたようである。
17世紀
この頃には、かなり綿栽培・木綿生産が盛んになる
『毛吹草』(1638年)には、河内の特産品として「久宝寺木綿」が紹介され、 貝原益軒の『南遊紀行』(1689年)にも登場している。
1704年(宝永元年)
この年、大和川の付け替えが行われる
これまでの河床が畑になり、綿栽培が行われ、木綿生産も更に盛んになる。
天保年間(1830年~1844年)
この頃、河内木綿は最盛期を迎える
河内地方の平均綿作面積率は45.8%、年間300万反の河内木綿が生産されていたと言われている。
1858年(安政5年)
この年、修好通商条約締結
アメリカなどと修好通商条約が締結されると、木綿や綿糸が輸入されるようになる。
ただし、河内木綿に直接打撃を与えるような影響はなかった。
明治時代初期
この頃、「織屋」が登場する
明治になっても河内の綿作は盛んであり、「織屋」という工場制手工業経営が登場する。
明治20年代
この頃、大阪などで織物工場が操業
機械綿布が登場し、河内木綿を圧迫するようになる。
他方、河内木綿の繊維は短太のため、機械を導入できなかった。
1888年(明治21年)
この年、大日本紡績連合会が関税撤廃を請願
輸入綿花の関税撤廃が言われるようになる。
1893年(明治26年)
この年、「輸入棉花海関税免除法律」が審議
輸入綿花の関税撤廃という潮流の中、法律が審議され、河内地方でも反対運動が起こる。
そのため、実施が延期され、外国綿の移植など綿作改良が行われる。
1897年(明治30年)
この年、「輸入棉花海関税免除法律」施行
1894年(明治27年)の綿糸の輸出税撤廃もあり、河内木綿は急速に衰退していく。
大正時代
この頃には、綿作農家は転作、木綿問屋は寄生地主になるなど、河内木綿の生産は終りを迎えていた。
参考
「大阪の歴史」研究会「大阪近代史話」
NPO法人 河内木綿藍染保存会「河内木綿のこと」
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