川中島の戦い

概要

 川中島の戦いは、北信を巡り、5度にわたり武田信玄上杉謙信が争った合戦です。

名 前川中島の戦い (かわなかじまのたたかい)
別 名川中島の合戦
区 分戦争
期 間1553年(天文22年)~1564年(永禄7年)
場 所信濃国川中島(現:長野県長野市)
時 代戦国
備 考
別名期間概要
第1次八幡・布施の戦い1553年(天文22年)4月~10月信濃を追われた村上義清長尾景虎に支援を要請し、起こった戦いである。葛尾城を奪われた村上義清はいったん、5月に長尾家の支援のもと葛尾城を奪還するが、8月に武田勢の反撃で越後に追われる。9月に長尾景虎も出陣し、荒砥城を落とすなどするが、大きな決戦にならず、両軍とも引き上げる。
第2次犀川の戦い1555年(天文24年)7月19日~閏10月15日長尾家家臣・北条高広の反乱など、両家の緊張感が高まる中、善光寺南部が武田家の支配下となり、その対策として、長尾景虎が出陣。武田信玄も出陣し、7月19日に小競り合いが起こるが、その後、犀川を挟み対峙。駿河の今川義元の仲介で和睦。
第3次上野原の戦い1557年(弘治3年)8月29日武田信玄が長尾景虎が築いた葛山城を2月に葛山城の戦いで落とし、更に北進を進めようとする。この葛山城の奪還と中野城・高梨政頼の救援のため、長尾景虎も出陣。8月29日に衝突するが、大きな戦いにならず、9月に両軍は引き上げる。
第4次川中島八幡原の戦い1561年(永禄4年)9月10日関東管領を譲られた上杉政虎(長尾景虎から改名)は関東攻略に向け、その背後を固めるため、8月16日に1万8000余の兵を率い、川中島の妻女山に陣を構える。武田信玄もそれに合わせ、2万余の川中島に出陣。一旦は臼山に布陣するが、上杉軍に動きがないため、8月29日に海津城に軍を集結させる。その後、9月9日に武田勢は兵を2つに分け、本陣8000を残し、1万2000の兵で妻女山を攻撃する(啄木鳥戦法)。しかし、その動きを悟った上杉政虎は、全軍を率いて武田軍本陣を攻撃する。当初は武田信繁が戦死するなど、数で勝る上杉軍が優勢であったが、妻女山の武田軍が本陣に合流すると、武田軍は反撃に転じ、上杉軍を打ち破る。
第5次塩崎の対陣1564年(永禄7年)8月~10月武田信玄による飛騨への侵攻を食い止めるため、上杉輝虎が川中島に出陣。武田信玄も川中島の塩崎城に出陣するが、両軍睨み合ったまま2か月対峙し、両軍とも引き上げる。


名称住所備考
川中島古戦場史跡公園長野県長野市小島田町1384−1川中島古戦場
長野市立博物館長野県長野市小島田町1414(八幡原史跡公園内)


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参考

  小和田泰経「戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い

  長野市「信州・風林火山」特設サイト「川中島の戦い

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