概要
明暦の大火は、江戸三大大火の1つで、1657年(明暦3年)に起こった江戸時代最大の大火災です。
名 前 | 明暦の大火 (めいれきのたいか) |
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別 名 | 丁酉火事、振袖火事 |
区 分 | 火災 |
期 間 | 1657年3月2日~4日(明暦3年1月18日~20日) |
場 所 | 江戸(現:東京都) |
時 代 | 江戸 |
備 考 |
年表
1657年(明暦3年)
1月18日 本郷丸山の本妙寺から出火
80日余も雨が降らず乾燥しており、北西風が強く吹くという悪条件の中、午後2時頃に出火。
湯島・駿河台・神田・日本橋・霊岸島から佃島・深川に飛び火した(特に、浅倉門では罹災者が集中し、大被害となる)。
1月19日 江戸城天守も焼け落ちる
午前10時頃、小石川伝通院前新鷹匠町から出火。
飯田町から田安門を経て、正午過ぎには江戸城天守にも火が入り、焼け落ちる。本丸御殿も焼失し、保科正之の機転で将軍・家綱は西之丸に移動。
更に、火は常磐橋から八重洲河岸を経て、新橋・鉄炮洲に及ぶ。
夕刻、更に番町からも出火し、北風で愛宕下から芝までを焼き尽くす。
1月20日 朝に鎮火
この火災で、江戸の大半が焼失し、死者は10万人を超えたと言われる。
これにより、江戸の都市計画が見直され、武家屋敷の配置替え、広小路・火除地の設定などが行われるようになった。
原因
由井正雪一味の残党による放火という説や、本妙寺の和尚が3年続きで死んだ娘の振袖を供養して焼いたところ風に舞い上がり火事になったという説がある(このため、「振袖火事」とも言われる)。
ただ、本妙寺からの出火ではなく、その風上の老中・阿部忠秋の家から出火したという説がある。
ゆかりの地・施設
明暦の大火に関する施設・ゆかりの地です。
本妙寺
大火の出火元とされる本妙寺には、供養塔が建立されています。
明暦の大火供養塔(東京都豊島区巣鴨5丁目35−6)
地図
参考
河出書房新社編集部編『大江戸歴史百科』
本妙寺「本妙寺と明暦の大火」
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