概要
内国勧業博覧会は、殖産興業・産業振興を目的として、明治時代に政府により行われた博覧会です。
名 前 | 内国勧業博覧会 (ないこくかんぎょうはくらんかい) |
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区 分 | イベント |
期 間 | 1877年(明治10年)8月21日~1903年(明治36年)7月31日 |
場 所 | 東京府(現:東京都)、京都府、大阪府 |
時 代 | 明治 |
備 考 |
概要
内国勧業博覧会とは、明治時代に、殖産興業を推し進める政府により行われた博覧会のことである。
1877年(明治10年)に東京で初めて開催され、1903年(明治36年)に大阪で開催されたものを最後に、計5回開催されている。
回 | 期間 | 場所 | 入場者数 |
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第1回 | 1877年(明治10年)8月21日~11月30日 | 東京上野公園 | 454,168人 |
第2回 | 1881年(明治14年)3月1日~6月30日 | 東京上野公園 | 823,094人 |
第3回 | 1890年(明治23年)4月1日~7月31日 | 東京上野公園 | 1,023,693人 |
第4回 | 1895年(明治28年)4月1日~7月31日 | 京都市岡崎公園 | 1,136,695人 |
第5回 | 1903年(明治36年)3月1日~7月31日 | 大阪市天王寺今宮 | 4,350,693人 |
都市への経済効果が大きく、1907年に第6回目の開催が検討され、更に万国博覧会にしようという声も上がるが、日露戦争による財政難や産業振興への効果に疑問が付され、内国勧業博覧会は5回で終了。
これ以降、府県レベルの博覧会は開催されるが、大阪万博まで国家レベルの博覧会は開催されることはなかった。
年表
1873年(明治6年)
5月1日 ウィーン万国博覧会(~11月1日)
オーストリアのウィーンで万国博覧会が開催され、日本政府は初めて公式に参加する。
このウィーン万国博覧会を参考に、大久保利通が日本での博覧会開催を推し進める。
1877年(明治10年)
8月21日 「第1回内国勧業博覧会」開催(~11月30日)
日本で初めて、東京上野公園で内国勧業博覧会が開催される。
従来から、珍品などを集めた博覧会は開催されていたが、産業振興を目的とした近代的な博覧会を目的に行われた(入場者数は454,168人)。
1881年(明治14年)
3月1日 「第2回内国勧業博覧会」開催(~6月30日)
東京上野公園で2回目の内国勧業博覧会が開催される。
出品数は4倍に増え、入場者数も第1回の454,168人から倍近くの823,094人となる。
1890年(明治23年)
4月1日 「第3回内国勧業博覧会」開催(~7月31日)
東京上野公園で3回目の内国勧業博覧会が開催される。
万博開催を見据え、皇紀2550年にあたる1890年に「アジア博覧会」の開催を構想するが、大蔵大臣・松方正義の反対に遭い、内国博覧会となる。
不景気、インフルエンザの流行などの影響から、入場者数は伸び悩んだとされるが、100万人を突破した(1,023,693人)。
1895年(明治28年)
4月1日 「第4回内国勧業博覧会」開催(~7月31日)
京都市岡崎公園で4回目の内国勧業博覧会が開催される。
博覧会が利益を生むことが分かり、誘致合戦も行われ、東京以外での初めての開催となる。
裸体画問題など話題性もあり活況を呈し、京都での開催であったが、入場者数は1,136,695人となる。
1903年(明治36年)
3月1日 「第5回内国勧業博覧会」開催(~7月31日)
大阪市天王寺今宮で5回目の内国勧業博覧会が開催される。
敷地は前回・第4回博覧会の2倍にも達し、会期も最長、最大の内国勧業博覧会となった。
折しも鉄道網の発達などもあり、入場者も過去最大の4,350,693人となった。
参考
国立国会図書館「博覧会-近代技術の展示場」
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