フォロー





 RSS登録

カテゴリー

人物人物 (47)
出来事出来事 (14)
制度制度 (8)
飲食物飲食物 (18)
農産物農産物 (53)
会社会社 (1)
施設施設 (9)
地域地域 (3)
広告


金解禁

金解禁

  きんかいきん
1929年(昭和4年)1月11日~1931年(昭和6年)12月13日

昭和初期に金輸出を解禁し金本位制に復帰しようとした政策



概要

 金解禁とは、昭和初期に浜口内閣で実施された金融政策で、為替市場において金本位制(固定為替相場)を採用することを指す。

 当時、先進国においては、第1次世界大戦で離脱していた金本位制に対して、金解禁を行い金本位制に復活していた。その中、日本でも金解禁が懸案事項となっていた。そこで、1930年(昭和5年)1月に当時の浜口内閣で、金解禁が行われ、金本位制の復活を果たす。
 しかし、経済状況が悪化する中で、立憲民政党から立憲政友会の犬養内閣に移り、1931年(昭和6年)12月に金輸出を禁止し、日本は金本位制から離脱することになる。


年表

1917年(大正6年)

この年、金輸出を禁止

第1次世界大戦で各国が金本位制を離脱する中、日本も金本位制から離脱する


1919年(大正8年)

この年、アメリカが金輸出を解禁

第1次世界大戦が終わり、各国で金本位制への復帰が懸案となる中、アメリカが金輸出を解禁。
日本では、シベリア出兵などの政治・軍事的な理由や大戦後の不況で、金解禁に踏み切らなかった。


1922年(大正11年)

6月 加藤友三郎内閣が成立

市来蔵相は金解禁を検討

9月 市来蔵相が懇談会を開催

市来蔵相が、実業家を招き、金解禁についての懇談会を開催する。


1923年(大正12年)

9月 加藤友三郎内閣退陣

関東大震災が起こり、内閣は退陣することになる。


1924年(大正13年)

この年、ドイツが金本位制に復帰


1925年(大正14年)

この年、イギリスが金本位制に復帰


1926年(大正15年)

1月 若槻内閣が成立

各国が金本位制に復帰する中、片岡蔵相は金解禁を検討。
そのためにまず、悪化した銀行経営に対し、金融界の整理を考える。

1927年(昭和2年)

3月 片岡蔵相が失言

渡辺銀行の休業を発言し、金融不安が起こり、取り付け騒ぎなどが起こる。

4月 若槻内閣退陣

金融恐慌が起こり、若槻内閣は退陣し、田中義一内閣となる。
金融恐慌の後始末や蔵相である高橋是清が金解禁に反対であったなどのことから、金解禁はしばらく見送られる。


1928年(昭和3年)

この年、フランスが金本位制に復帰


1929年(昭和4年)

1月 民政党が金解禁の即行を決議
4月 濱口内閣が成立

張作霖爆破事件の責任で田中義一内閣が倒閣し、反対党の民政党に政権が移る。

7月8日 濱口内閣が「十大政綱」を発表

この中で、金解禁の実施が発表される。

10月24日 ニューヨーク証券取引所で株価大暴落

いわゆる「暗黒の木曜日」で、世界恐慌が始まる。

ただ日本政府は、金解禁実施にあたり、これにより各国の金利が下がるため、好都合とも考えていた。


1930年(昭和5年)

1月 金解禁を実施

旧平価で金解禁が行われる。

折りからの世界恐慌による海外需要減、金解禁に伴う円高、緊縮財政などから、昭和恐慌が起こる。

11月 濱口首相遭難事件

東京駅で、濱口首相が右翼青年に狙撃され、重傷を負う


1931年(昭和6年)

12月13日 金輸出を再禁止

犬養内閣となり、再び金本位制から離脱


問題点

 現在では、変動相場制が通常となっているが、貿易の安定化などを図る場合には、為替レートが変わらない固定相場制が望ましいことが多い。そこで、歴史的には長い間、多くの国で固定相場制が採用され、その基準となるものとして金が志向され、金本位制が採用されてきた。
 その意味で金本位制への復活ということについて、当時としては、一つの帰結であったと思われる。

 ただ、金本位制という固定相場を採用するにあたり、為替レートをどうするかという点が問題となる。
 当時日本では、第1次世界大戦以前に金本位制を採用していた頃(旧平価)に比べて、円安基調にあった。そこで、旧平価をもとに為替レートを決めるのか、現状に合わせた円安水準で為替レートを決めるのかがポイントとなる。

 浜口内閣では、旧平価での金解禁を行おうと考えていた。そのため、実質的な為替レートを円高基調にするため、緊縮財政や公定歩合引き上げなどのデフレ政策を行い、為替介入なども行った。

 他方、1927年(昭和2年)の昭和恐慌や1929年(昭和4年)の世界恐慌で、日本経済が悪化する中、このようなデフレ政策が行われたことで、経済は一層、悪化することになる。

 すなわち、旧平価での金解禁を行うために、経済状況が悪い中、デフレ政策を行い、一層の経済悪化を招いてしまったということである。

 この結果、首相浜口雄幸は銃撃され、政権を引き継いだ若槻内閣では満州事変なども起こり、1931年(昭和6年)に犬養内閣へと政権交代が起こり、金輸出再禁止という形で、金解禁(金本位制)は終焉を迎える。


意義

 上記のように、デフレ政策で不況を招き、日本経済を悪化させ、中小企業の倒産や農村の荒廃などを招いてしまった。
 これ自体も大きな問題であるが、間接的には、その後の多くのテロリズムをも招いてしまったと言われている。

 浜口首相遭難事件はもとより、金解禁から金輸出再禁止にあたり、金本位制の維持は無理だと考えた財閥が投機を行い、莫大な利益を上げたとされ、その後の血盟団事件による団伊玖磨などの殺害にもつながっている。

 特に、軍事テロで最も大規模な二・二六事件では、上記の昭和不況で荒廃した農村の惨状を体験した農村出身者も多く、この事件の動因の一つとなっている。


参考

favicon-book中村隆栄「昭和恐慌と経済政策 (講談社学術文庫)





コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA


広告