真田昌幸

概要

 真田昌幸は、武田家家臣時代には「信玄の眼」とも言われ、その後、上田合戦で徳川軍を撃退した戦国大名・武将です。

名 前真田 昌幸 (さなだ まさゆき)
別 名(幼名)源五郎、(別名)武藤喜兵衛
性 別男性
生没年1547年(天文16年)~1611年7月13日(慶長16年6月4日)
出生地信濃国(現:長野県)
没 地
時 代戦国安土江戸
父 親真田幸隆、(養父)武藤三郎左衛門尉
母 親恭雲院
配偶者(正室)山手殿
子 供真田信之真田信繁、真田信勝、真田昌親、村松殿、清寿院、鎌原重春室、清陽院、趙州院、清光院、於楽
家 族
備 考

内容

 戦国時代の武将・大名である。
 信玄の母系・大井氏の支族である武藤家に養子に出ていたが、長篠の戦いで兄・信綱、昌輝が亡くなり、真田家を相続する。
 武田家家臣として、武田勝頼に仕えていたが、武田家滅亡後は独立。居城である上田城は、北条家・徳川家・上杉家などがせめぎ合う地域であり、離反・戦いを繰り返すが、豊臣秀吉に臣従。
 その後、豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いで、長男・信幸は東軍につくが、昌幸と次男・幸村は西軍につき、上田にて徳川秀忠の軍勢の関ヶ原行きを足止めする。しかし、関ヶ原の戦いの本戦では東軍が勝利したため、次男・幸村とともに、紀伊国の九度山に蟄居を命じられ、1611年(慶長16年)に死去。


年表

真田昌幸に関する年表・年譜です。

年齢出来事
1547年
(天文16年)
1歳武田家家臣・真田幸隆の三男として、生まれる。
1553年
(天文22年)
7歳人質として、甲斐に行く
1569年
(永禄12年)
23歳三増峠の戦いで使番
1572年
(元亀3年)
26歳三方ヶ原の戦い
1574年
(天正2年)
28歳父・幸隆死去
1575年
(天正3年)
29歳長篠の戦い(兄・信綱、昌輝が亡くなり、真田家を相続)
1579年
(天正7年)
33歳東上野の沼田領へ侵攻
1580年
(天正8年)
34歳従五位下・安房守を叙任
1582年
(天正10年)
36歳 3月 武田家滅亡
6月 本能寺の変
1585年
(天正13年)
39歳第一次上田合戦
1600年
(慶長5年)
54歳第二次上田合戦
1611年
(慶長16年)
65歳死去
(※)年齢は、満年齢ではなく数え年です。


ゆかりの地・施設

真田昌幸に関する施設やゆかりの地です。

名称住所備考
上田城跡公園長野県上田市大手1丁目11−16
真田山長谷寺長野県上田市真田町長4646
真田宝物館長野県長野市松代町松代4−1
史跡新府城跡県韮崎市中田町中條
善名称院(真田庵)和歌山県伊都郡九度山町九度山1413境内には「真田地主大権現」「宝物資料館」が、近隣には「真田古墳」があります

イベント・祭り

真田昌幸に関するイベント・祭りです。

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