概要
高野長英は、江戸時代に開国を説き、捕えられ処罰された江戸時代の蘭学者・医学者です。
名 前 | 高野 長英 (たかの ちょうえい) |
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性 別 | 男性 |
生没年 | 1804年(文化元年)5月5日~1850年(嘉永3年)10月30日 |
出生地 | 陸奥国水沢(現:岩手県奥州市水沢) |
没 地 | |
時 代 | 江戸 |
父 親 | (実父)後藤実慶、(養父)高野玄斎 |
母 親 | |
配偶者 | |
子 供 | |
家 族 | |
備 考 |
内容
江戸時代の医者・蘭学者である。
江戸や長崎で医学や蘭学を学び、江戸で蘭学塾を開業。モリソン号事件に伴い、異国船打払令を批判した。
しかし、蛮社の獄が起こり、一度捕まるが脱獄。数年間の脱獄生活を経て、江戸で捕えられ死去する。
年表
高野長英に関する年表・年譜です。
年 | 年齢 | 出来事 |
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1804年(文化元年) | 1歳 | 水沢伊達氏家臣・後藤実慶の子として、生まれる。 |
1820年(文政3年) | 17歳 |
江戸で、杉田伯元・吉田長淑に学ぶ。 シーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学ぶ。 |
1828年(文政11年) | 25歳 | シーボルト事件 |
1830年(天保元年) | 27歳 | 江戸・麹町で、町医者として蘭学塾を開業 |
1832年(天保3年) | 29歳 | 尚歯会に入会 |
1837年(天保8年) | 34歳 | モリソン号事件 |
1839年(天保10年) | 36歳 | 蛮社の獄 |
1844年(弘化元年) | 41歳 | 牢屋敷の火災に乗じて脱獄 |
1850年(嘉永3年) | 47歳 | 江戸で捕えられ、死去 |
(※)年齢は、満年齢ではなく数え年です。
文献
高野長英に関する文献・著書です。
鶴見俊輔「高野長英」
佐藤昌介「高野長英」
ゆかりの地・施設
高野長英に関する施設やゆかりの地です。
高野長英生誕地
高野長英生誕地には碑が建っています。
高野長英生誕地(岩手県奥州市水沢吉小路34)
高野長英旧宅
岩手県奥州市には、高野長英旧宅が残っています。
高野長英旧宅(岩手県奥州市水沢大畑小路7)
高野長英記念館
高野長英に関する博物館である。
高野長英記念館(岩手県奥州市水沢区中上野町1−9)
高野長英の小森塾
高野長英が地域の子供たちに漢学を教えた塾です。
高野長英の小森塾(岩手県一関市大東町鳥海小森38)
高野長英終焉の地
スパイラルホールの片隅に高野長英終焉の地として石碑が立っている。
高野長英終焉の地(東京都港区南青山5丁目6−23)
高野長英の顕彰碑
善光寺内に高野長英に関する碑が立っている。
高野長英の顕彰碑(東京都港区北青山3丁目5−17 善光寺内)
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