年表
鎌倉時代
この時代、有力武士を表すようになる
もともと大名は、多くの名田をもった者だったが、この頃になると、有力武士を表すようになる。
室町時代
この時代、守護大名が登場する
室町時代には守護が領国支配を強め、守護大名と呼ばれるようになる。
戦国時代
この時代、戦国大名が登場する
更に、戦国時代には、多くの所領を得た武将が戦国大名と呼ばれたりした。
1634年(寛永11年)
この年、老中宛法度で大名の基準が示される
1万石以上の石高を持つものが大名とされる。
1635年(寛永12年)
この年、武家諸法度が改訂され、大名の基準が明記される
国主・城主・1万石以上と明記された。
このため、大藩の家老のように1万石以上の知行を有していても、大名の義務である参勤交代も不要であった。
また逆に、旗本や御家人は将軍の直臣であるが、1万石未満の知行であるため、大名とはされなかった。
江戸時代の大名の区分
江戸時代の大名は、徳川家との血縁関係や臣従した時期で、次のように大別される。
概要 | |
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親藩(しんぱん) |
徳川家一門の大名の総称である。 ただ、江戸時代には「親藩」と呼ばれることはなく、格式に応じ、御三家、御三卿、家門、連枝などと言われた。 |
譜代大名(ふだいだいみょう) |
関ヶ原の戦い以前から、徳川家に仕えていた1万石以上の直臣。 石高は、多くは10万石以下だったが、筆頭の井伊家は30万石の石高を有した。 江戸城の大名殿席の際には、井伊家が溜間、古来御譜代が帝鑑間に、その他の譜代大名は雁間や菊間縁頬に詰めた。 |
外様大名(とざまだいみょう) |
関ヶ原の戦い以後に、徳川家に仕えるようなった1万石以上の直臣。 領地の大きい大名が多く、筆頭が前田家、次に島津家、伊達家と続く。 江戸城の大名殿席の際には、前田家や島津家(島津重豪の娘が、11代将軍・家斉の正室になった後)は大廊下に面した部屋を与えられ、それ以外の大名は、位階が従四位下以上の大名は大広間、従五位下の大名は柳間が与えられた。 |
参考
深谷克己・須田努編『近世人の事典』
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