概要
岡倉天心は、明治・大正時代に美術指導家として活動し、近代日本の美術の発展に寄与した美術家・思想家です。
名 前 | 岡倉 天心 (おかくら てんしん) |
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別 名 | (幼名)岡倉角蔵、(本名)岡倉覚三 |
性 別 | 男性 |
生没年 | 1863年2月14日(文久2年12月26日)~1913年(大正2年)9月2日 |
出生地 | 武蔵国久良岐郡横浜村(現:神奈川県横浜市) |
没 地 | |
時 代 | 江戸明治大正 |
父 親 | 岡倉覚右衛門 |
母 親 | |
配偶者 | |
子 供 | 九鬼周造 |
家 族 | |
備 考 |
年表
岡倉天心に関する年表・年譜です。
年 | 年齢 | 出来事 |
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1863年(文久2年) | 0歳 | 福井藩士・岡倉覚右衛門の次男として横浜で生まれる。 |
1873年(明治6年) | 10歳 | 官立東京外国語学校に入学する。 |
1875年(明治8年) | 12歳 | 東京開成学校に入学する。 |
1878年(明治11年) | 15歳 | 基子と結婚する。 |
1880年(明治13年) | 17歳 |
7月 東京大学文学部を卒業。 11月 文部省に勤務 |
1881年(明治14年) | 18歳 | フェノロサと日本美術を調査する。 |
1882年(明治15年) | 19歳 | 専修学校の教官となる。 |
1886年(明治19年) | 23歳 | 欧米へ視察旅行する(~1887年(明治20年))。 |
1887年(明治20年) | 24歳 | 東京美術学校の幹事となる。 |
1888年(明治21年) | 25歳 | パトロン・九鬼隆一の妻と不倫する。 |
1889年(明治22年) | 26歳 |
東京美術学校開校 東京美術学校の第2代校長就任 |
1898年(明治31年) | 35歳 | 東京美術学校を排斥され辞職し、日本美術院を上野谷中に設立する。 |
1906年(明治39年) | 43歳 | 美術院の拠点を茨城県五浦に移す。 |
1910年(明治43年) | 47歳 | ボストン美術館の中国・日本美術部長就任。 |
1913年(大正2年) | 47歳 | 新潟県赤倉温泉の自身の山荘にて死去。 |
名言
岡倉天心による名言・至言です。
自己の内側の大いなるものの小ささを感ずることができぬものは、他人の内側の小さなものの大いさを見のがしやすいものだ。
『茶の本』
アジアは一つである
『東洋の思想』
文献
岡倉天心に関する文献・著書です。
斎藤隆三「岡倉天心」
塩出浩之「岡倉天心と大川周明―「アジア」を考えた知識人たち」
ゆかりの地・施設
岡倉天心に関する施設・ゆかりの地です。
名称 | 住所 | 備考 |
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茨城県天心記念五浦美術館 | 茨城県北茨城市大津町椿2083 | |
岡倉天心六角堂 | 新潟県妙高市赤倉 | |
茨城大学五浦美術文化研究所 | 茨城県北茨城市大津町727−2 | 六角堂(2012年4月17日) |
岡倉天心の墓地 | 茨城県北茨城市大津町五浦 | |
天心遺跡記念公園 | 茨城県北茨城市大津町五浦 | 日本美術院研究所跡 |
岡倉天心記念公園 | 東京都台東区谷中5丁目7−10 | 岡倉天心邸兼日本美術院跡 |
横浜市開港記念会館 | 神奈川県横浜市中区本町1丁目6 | 岡倉天心生誕地、館前に碑がある |
岡倉天心郷家の跡 | 福井県福井市宝永1丁目39−12 | 碑 |
福井市中央公園 | 福井県福井市大手3丁目10−1 | 岡倉天心像 |
参考
大隅和雄他「知っておきたい日本の名言・格言事典」
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