概要
二宮金次郎は、小田原藩などの藩政を担い、財政再建・藩政立て直しなどを行った江戸時代の農政家です。
名 前 | 二宮 金次郎 (にのみや きんじろう) |
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別 名 | (諱)二宮尊徳 |
性 別 | 男性 |
生没年 | 1787年9月4日(天明7年7月23日)~1856年11月17日(安政3年10月20日) |
出生地 | 相模国足柄上郡栢山村(現:神奈川県小田原市栢山) |
没 地 | |
時 代 | 江戸 |
父 親 | 利右衛門 |
母 親 | よし |
配偶者 | きの(離婚)、波 |
子 供 | 徳太郎、弥太郎(二宮尊行)、ふみ |
家 族 | |
備 考 |
内容
よく二宮尊徳を「報徳記」をもって思想家とする場合もありますが、家老家の財政再建や天領経営などで成果を上げた実務家です。
なお、大正・昭和に入ると、全国各地の小学校に「二宮金次郎像」として、薪を担ぎ、歩きながら読書する像が置かれるようになりました。
年表
二宮金次郎に関する年表・年譜です。
年 | 年齢 | 出来事 |
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1787年(天明7年) | 0歳 | 相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)で百姓・利右衛門の長男として誕生。 |
1791年(寛政3年) | 4歳 | 大豪雨により酒匂川が氾濫し、父・利右衛門の田畑が荒地となる |
1800年(寛政12年) | 13歳 | 父・利右衛門が死去 |
1802年(享和2年) | 15歳 |
母・よしが死去。 弟・友吉、富次郎を母の実家に預け、金次郎は伯父・万兵衛のもとに身を寄せる。 |
1804年(文化元年) | 17歳 | 伯父・万兵衛の元を離れ、名主・岡部伊助のところで、農業の傍ら、習字読書を教わる。 |
1806年(文化3年) | 19歳 | 廃屋を修理し独居。田を買戻し、生家の復興を行う。 |
1812年(文化9年) | 25歳 | 小田原藩主家老・服部家の若党となる。 |
1815年(文化12年) | 28歳 | 服部御家政御取り直し趣法帳を起草。 |
1817年(文化14年) | 30歳 | キノを娶る(一年後キノが去り、離婚)。 |
1818年(文政元年) | 31歳 | 主人・服部十郎兵衛より服部家の再建を依頼される(その後、財政再建を果たす) |
1820年(文政3年) | 33歳 | 浪子を娶る |
1821年(文政4年) | 34歳 | 小田原藩主の分家で旗本の宇津家の桜町領の復興を命じられ、調査を始める |
1822年(文政5年) | 35歳 | 正式に宇津家の桜町領の領地開発を命じられる |
1823年(文政6年) | 36歳 | 桜町の領地開発を始める |
1830年(天保元年) | 43歳 | 宇津家仕法第一期が終了した成果として米426俵を小田原藩主・大久保忠真に治める |
1832年(天保2年) | 44歳 | 近隣の青木村から、救済を懇願される |
1834年(天保4年) | 46歳 |
青木村の桜川の堤防修理を行う なすを食べ、気候の異変を悟り、桜町を凶作から守る(天保の大飢饉の始まり) |
1836年(天保6年) | 48歳 | 小田原藩主・大久保忠真より、功労を賞される。 |
1837年(天保7年) | 49歳 | 飢饉・凶作続き、打ちこわしなども起こり、小田原藩主・大久保忠真より、小田原救済を依頼される。 |
1838年(天保8年) | 50歳 |
村々を廻り、小田原の救援活動を行う。 小田原藩主・大久保忠真が死去 |
1856年(安政3年) | 68歳 | 10月20日 下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所で、死去 |
(※)年齢は、数え年ではなく満年齢です。
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