砂糖

概要

 砂糖は、中国から伝えられ、奈良時代ぐらいには輸入されていた。ただ貴重品であったため、甘味料というよりは薬種として利用されている。本格的に、砂糖が甘味料として利用されるようになったのは、南蛮貿易でカステラや金平糖などが入ってきた戦国時代と考えられている。
 また、江戸時代までは、日本には砂糖の原料であるてん菜などの栽培が行われておらず、中国などからの輸入に頼っていた。しかし、江戸時代に、幕府は貿易赤字を減らすため、輸入品の国内生産を増やそうとし、日本でも甘藷の栽培が始まり、砂糖が生産されるようになる。


年表

奈良時代

 鑑真が伝えたと言われているが、いずれにせよ奈良時代には砂糖は日本に存在していた模様。
 ただし、甘藷糖が栽培されていないため、輸入に頼らなければならず、貴重な薬種として利用されていた。


中世・南北朝時代

 「砂糖羊羹」「砂糖饅頭」という言葉が当時の文献から現れ、甘味料として使われるようになっていく。


戦国時代

大量の砂糖が輸入されるようになる

 南蛮貿易の開始もあり、中国大陸南部で生産された砂糖を、南蛮船や中国船舶が、大量の砂糖を日本に持ち込むようになる。
 また、カステラ・金平糖などの西洋菓子の製造も伝えられ、甘味料として、砂糖が日本文化に根付く。


江戸時代初頭

砂糖の輸入は禁止されなかったため、大量に砂糖が輸入されるようになる。


江戸時代中期

享保の改革による砂糖の国産化が図られる

 砂糖などの海外品の輸入のため、多くの金銀が海外に流出するという事態が起こってきており、享保の改革で、輸入品の国産化が図られる。
 その一つとして、甘藷・さとうきびの栽培と砂糖精製の研究が行われるようになる。
 その結果、薩摩藩のもとにあった琉球の黒糖に加え、讃岐・阿波で生産が伸び、産地となる。


明治時代初頭

安価な砂糖の輸入で、国内の砂糖が打撃を受ける

 開国で安価な砂糖の輸入で、国内の砂糖は打撃を受け、国内での甘藷などの栽培は減少していく。
 この結果、日本の製糖は奄美大島と沖縄県の黒砂糖のみとなる。


1880年代

北海道で、てん菜糖生産が行われ、製糖工場が建設される

 しかし、凶作、経営の失敗などで、1890年代半ばには生産は中止。


1895年(明治28年)

日清戦争に勝利し、台湾の日本統治が始まる

 台湾で大規模な甘藷栽培を行なわれるようになる。


1900年(明治33年)

台湾で「台湾製糖」が設立

 近代的分蜜粗糖工場で、これを機に製糖工場が相次いで台湾に進出する。
 また、内地でも粗糖を精製する精製糖工場が建設されるようになる。

 この結果、砂糖の生産が拡大していく。


1901年(明治34年)

砂糖消費税の徴収開始


1920年前後

一旦打ち切られたてん菜糖業が、再び注目され、最新鋭の工場が建設される

 1930年代後半には、4万トン以上の製糖量となる。


1938年(昭和13年)

砂糖生産は137万トン余りに達する

 国内の砂糖は自給されるようになり、特別な調味料から、庶民にとっても一般的なものになる。


1941年(昭和16年)

太平洋戦争開戦

 砂糖は配給制が採られ、砂糖の消費量は減少していく。


1945年(昭和20年)

敗戦で台湾を失い、砂糖不足となる

 代わりに、戦後数年間は、人工甘味料(ズルチン、チクロ)がもてはやされる。

 ただ、粗糖輸入に対し外貨割当制が採られる中、徐々に精製糖業は生産を復活させていく。


1963年(昭和38年)

粗糖輸入が自由化

 これに伴い、市価が製造原価を下回るような事態となり、製糖会社は赤字となる。


1965年(昭和40年)

「砂糖の価格安定等に関する法律」(糖価安定法)が公布

 製糖会社の救済のため、糖価を安定させるため、安定上下限価格が導入される。


1973年(昭和48年)

第四次中東戦争で、砂糖パニックが起きる


2000年(平成12年)

糖価安定法が改正され、「砂糖の価格調整に関する法律」(糖価調整法)が制定される

 糖価の低下を抑制する要因となっていた安定上下限価格が廃止される。


2006年(平成18年)

「砂糖の価格調整に関する法律」が改められ、「砂糖及びでん粉の価格調整に関する法律」が制定される


参考

  芳賀登・石川寛子監修『全集日本の食文化 第5巻 油脂・調味料・香辛料

  農畜産業振興機構「お砂糖豆知識[2002年6月]

  農畜産業振興機構「砂糖の歴史

  国立国会図書館 ISSUE BRIEF「砂糖をめぐる状況 ―TPP の影響を中心に―

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