藤村紫朗

概要

 藤村紫朗は、明治初期に道路改修や殖産興業の推進などを行った山県令(山県知事)です。

名 前藤村 紫朗 (ふじむら しろう)
性 別男性
生没年1845年(弘化2年)~1909年(明治42年)
出生地肥後国熊本寺原瀬戸坂袋町(現:熊本県熊本市)
没 地
時 代江戸明治
父 親
母 親
配偶者
子 供
家 族
備 考

年表

1845年(弘化2年)(1歳)

この年、熊本藩・黒瀬市右衛門の次男として生まれる


江戸時代末期

10代になり、京に上り尊王攘夷・倒幕運動に加わる


1863年(文久3年)(19歳)

8月18日 八月十八日の政変

この政変の後、紫朗は脱藩する


1864年(元治元年)(20歳)

7月19日 蛤御門の変

長州藩の同志とともに、この戦いに加わり敗れて、山陰道を九州に逃れる


1868年(慶応4年/明治元年)(24歳)

この年、戊辰戦争が起こる

この戊辰戦争勃発時、大和十津川郷士らと紀州高野山の挙兵に参加
この頃から、藤村姓を名乗ったとされる。

この後、越後路の軍監として転戦し、京都・大阪の行政官となる。


1873年(明治6年)(29歳)

1月24日 山梨権令(県令心得)に任命

大阪府参事から転任

1月30日 甲府に到着

山籠で従者一人を伴い、富士川岸の悪路を急ぎ、出迎えの役人をはぐらかし、甲府に到着

3月 「山形県職制条例・事務章程」を定める

職員への訓示

3月 小学校整備のため「学制解訳」を頒布

1872年に政府が統一的な「学制」を施行されたが、山県では前年10月に3校が仮設されただけであった。
ただ、資金難ということもあり、藤村紫朗は「学制解訳」を頒布し、小学校資本金拠出を促す。
(なお、後に小学校への就学を促すため、県下の寺小屋・私塾を圧迫し、無許可のものを禁止)

4月20日 「物産富殖ノ告諭」発表

従来から産地であった蚕糸業の振興を宣言

その後、県民を移住させ、巨摩郡日野原の原野を開拓し、桑苗が植えられる。
養蚕改良のため福島県などの先進地からの養蚕教師の招聘、養蚕未普及地での配布のため、信州からの桑苗150万本の輸入なども実施。

更に、生糸改良のため、甲府に200人取りの山梨県勧業製糸場の建設を着手。

5月15日 「狐憑祈攘淫祠建立神託講社賭博等流弊ヲ禁ズ」を布達

前任の土肥謙蔵から実施されていた「陋習」の禁圧を、藤村紫朗も実施


1874年(明治7年)(30歳)

この年より、県都・甲府に諸施設を整備

錦・紅・常磐町通り沿いに新たな諸施設を10年かけ整備

1月 「道路開通告示」を出す

前年夏に、甲府-石和間の村々が民費と寄付で街道改修を実施したのを好機と捉え、「道路開通告示」を出し、道路改修の必要性を訴える(反響を呼び、村々から道路用地・費用の寄付の申し出が出る)

3月 「道路開通告示」を出す
3月 東京師範学校へ派遣している県出身者が帰県(山梨師範学校開設)

この頃までに185校の小学校が開設されたが、教師不足であった。
前年からその対応にあたっていたが難しく、東京師範学校へ派遣している県出身者4人が帰県すると、山梨師範学校開設を開設し、急場しのぎで教師不足の対応を図る

10月26日 「山梨県勧業製糸場」開業式

建設中には、1873・1874年にかけて、県内に幼童・処女の生血・生胆が狙われているという噂が立ち、勧業製糸場こそ、その装置だと噂されるなどの事態もあったが、完成に漕ぎ着ける。

当時としては大きな規模で、これを上回るのは、官営富岡製糸場のみであった。
この製糸場の影響は大きく、民間の機械製糸場もいくつも現れ、5年後の1879年(明治12年)には機械製糸が全生糸産額の半分弱に達する。


1875年(明治8年)(31歳)

この頃、絹織物の不正品対策を企図

山梨県は、絹織物の産地(全国5位)であったが、目方増しの糊付・尺不足などの不正品が出回る危険性が生じてきた。
そこで、産地の都留郡各区戸長に、この悪弊を一新するように説諭を加え、不正者に対し姓名の届け出の実施などを命じたりしている。


1876年(明治9年)(32歳)

6月 甲府城内を勧業試験場にする

早々からワイン国産化を考えていた藤村は、勧業試験場を設置し、外国種葡萄の導入を試みる。
また、同じ頃、甲府で詫間憲久・山田宥教がワイン醸造を行っており、藤村は内務省から1000円の無利子貸付を得て、試作改良を助ける。


1877年(明治10年)(33歳)

5月 政府に先駆けて、県会を開設

道路などのインフラ整備に当たり、民費(区村費)を中心に行われており、トラブルが生じるようになった。
そこで藤村は、政府に先駆けて、県会を開設し、その調整を図ろうとする。

ただし結局は失敗し、山梨県独自の県会はこのときの1回のみ。


1878年(明治11年)(34歳)

3月 勧業試験場内に葡萄酒醸造場を設置

内務省から15000円の貸下げを受け、詫間憲久らを起用し、勧業試験場内に葡萄酒醸造場を設置

並行して、雨宮彦兵衛・内田作右衛門が中心となり、葡萄酒会社も誕生(株主に藤村自身も加わる)
(ただし、未熟な技術・売行不振などから、1884年(明治17年)に醸造中止、1886年(明治19年)に会社解散)

4月 政府が地方三新法を公布

政府は、郡区町村編成法・地方税規則・府県会規則の三新法を公布し、新しい行政単位・機関などを定める。

6月 『民間雑誌』(週刊)が発行され、社説で藤村への批判を実施

これまでは、県庁の広報誌的な『甲府日日新聞』しかなかったが、6月に『民間雑誌』が発行され、社説で藤村への批判を実施。
7月には、『生読新聞』が創刊され、県の施政を風刺。

この頃から、藤村県政に対する批判が出てくるようになってくる。


1879年(明治12年)(35歳)

3月 府県会の第1回選挙

1878年(明治11年)に政府が府県会の開設に踏み切り、山梨県でも初めての府県会の選挙区が行われる。

3月 反県庁的な言論紙『峡中新報』が創刊

前年に創刊された『民間雑誌』『生読新聞』は長続きしなかったが、『峡中新報』が創刊され、5年に渡り、自由民権運動機関誌として論陣をはり、県の施政に対する批判を加える。

4月25日 最初の山梨県会開催


1880年(明治13年)(36歳)

6月 明治天皇が山梨県を巡幸


1881年(明治14年)(37歳)

6月 「官林草木伐刈方出願心得並手続」を発布

1873年(明治6年)に地租改正が行われ、林野は官有地と民有地に区分されることになったが、そもそも山梨県は山林が多く、江戸時代からの入会地が69%を占めていた。

この入会地について、官有地とすべきかどうか、官有地とした場合、従来通り農民が自由に入れるかが問題となり、藤村は所掌の内務省・農商務省との調整を行うが、最終的には農商務省の意向に沿った「官林草木伐刈方出願心得並手続」を発布することになる。

この結果、県内の農山村民は、草木採取の際には、面倒な手続・出願が必要となった。


1883年(明治16年)(39歳)

5月 藤村の折衝で、水害復旧補助金の下付が決定

前々年・前年に山梨県は水害に見舞われて、その復旧費に関し、政府と折衝し、41万円余の補助金を確保


1884年(明治17年)(38歳)

この年、藤村の訴えで官有山林について、農商務省より特例措置が認められる

官有地の問題について、批判が生じたことこら、農商務省に善処を求め、成功

この年から、政府は大規模な災害復旧や大規模工事に対し、補助金を認めるようになる

これにより、大規模工事などでは県会審議はうまくいくが、補助金が期待できない県独自の殖産興業や県立学校拡充計画には県会は消極的となる。


1883年(明治16年)(39歳)

1月 「官有山林原野草木払下条規」を布達

前年の農商務省の特例を受け、「官有山林原野草木払下条規」を布達
しかし、払下げに当たり、年限が定められており、農民の不満・不信が強く、払下げ出願は少なく、濫盗伐・山火事で県内の山林の荒廃が進む。


1884年(明治17年)(40歳)

1月 勧業製糸場の主要建物が火災で焼失

政府は勧業払下げを方針としており、翌年6月に民間に払下げ


1886年(明治19年)(42歳)

この年、政府により「地方官官制」発布

府知事・県令がすべて「知事」と呼ばれるようになる。


1887年(明治20年)(43歳)

5月6日 愛媛県知事に転任を命じられる


1888年(明治21年)(44歳)

2月 公金流用を疑われ、東京で訊問を受ける

その後、身の潔白を主張し、辞表を出す


1909年(明治42年)(63歳)

1月5日 死去

従3位勲2等から正3位に叙される


ゆかりの地・施設

藤村紫朗に関する施設・ゆかりの地です。

藤村記念館

睦沢村(現:甲斐市亀沢)に建てられた睦沢学校の校舎が移築され、現在、藤村記念館として甲府駅北口で開館している。

  藤村記念館(山梨県甲府市北口2-2-1)


地図

参考

  有泉貞夫編著「山梨県の百年

  明治20年5月9日「官報」

  明治42年1月7日「官報」

  明治42年1月11日「官報」

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