概要
御三家とは、江戸時代に、将軍に次ぐ高い官位を有し、別格の扱いを受けた家のことであり、初代将軍・徳川家康の子息から始まった尾張家・紀伊家・水戸家が、御三家とされている。
御三家は、それぞれの藩を領有する大名であり、尾張家・紀伊家は大納言、水戸家は中納言にまで昇進し、大名の中でも格式が高かった。
そして、将軍宗家の血筋が途絶えたときに、相続者を出されることがあった。
家 | 祖 | 石高 | 将軍となった者 |
---|---|---|---|
尾張家 | 徳川家康9男・義直 | 61万9500石 | 8代将軍・吉宗、14代将軍・家茂 |
紀伊家 | 徳川家康10男・頼宣 | 55万5000石 | |
水戸家 | 徳川家康11男・頼房 | 35万石 | 15代将軍・慶喜(一橋家へ養子) |
年表
1603年(慶長8年)
徳川義直が4歳で甲斐20万石、徳川頼宣が2歳で水戸20万石に封じられる
1605年(慶長10年)
徳川頼房が3歳で下妻10万石に封じられる
徳川義直・徳川頼宣・徳川頼房いずれも、幼いうちにから大名として、扱われる。
1607年(慶長12年)
徳川義直が清州に転封
1609年(慶長14年)
徳川頼宣が駿府に、徳川頼房が水戸に転封
1611年(慶長16年)
徳川義直が名古屋に転封
ここに至り、後の御三家体制の基礎ができる。
1619年(元和5年)
徳川頼宣が和歌山に転封
後に御三家と呼ばれるような体制ができる。
また、この頃から、各家は独立した藩屏としての体裁が整えらえるようになる。
ただ、この段階では、将軍家・尾張家・紀伊家をもって「御三家」とするような考えがあった。
(駿河家・甲府家などは、水戸家よりも高い官職に叙されている)
1704年(宝永元年)
甲府家が廃絶され、いわゆる「御三家」が確立する
駿河家は徳川忠長が寛永10年に自刃しており、この年、甲府家の徳川綱豊(後の徳川家宣)が五代将軍・徳川綱吉の世子となり、将軍職を継承したことに伴い、甲府家が廃絶となる。
この結果、いわゆる「御三家」が確立する。
参考
深谷克己・須田努編『近世人の事典』
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