概要
1941年(昭和16年)に死亡・亡くなった人物の一覧を掲載しています(五十音順)
※出身地は生まれた都道府県、出身地の市町村は現在の市町村、出没年は西暦で掲載しています。
一覧
名前 | 出没年 | 出身地 | 概要 | いしぐろただのり 石黒忠悳 | 1845年~1941年 | 福島県 伊達市 | 軍人医者実業家議員茶人 明治時代に帝国陸軍の近代軍医制度の確立に尽力した軍医 | いはらとしお 伊原敏郎 | 1870年~1941年 | 島根県 松江市 | 評論家劇作家 戦前に、『日本演劇史』『近世日本演劇史』『明治演劇史』三部作などを著した演劇評論家・劇作家 | いわだれくにひこ 岩垂邦彦 | 1857年~1941年 | 福岡県 みやこ町 | 実業家技術者 日本で最初の外資との合弁企業である電気機器メーカー「NEC」の創業者 | おおすみみねお 大角岑生 | 1876年~1941年 | 愛知県 稲沢市 | 大臣軍人 戦前、海軍大臣として「大角人事」と呼ばれる人事を行い、条約派を一掃した帝国海軍軍人 | おおにしきういちろう 大錦卯一郎 | 1891年~1941年 | 大阪府 大阪市 | 力士 第26代横綱となった戦前の大相撲力士 | おかのていいち 岡野貞一 | 1878年~1941年 | 鳥取県 鳥取市 | 作曲家 唱歌『故郷』『春が来た』『春の小川』などを作曲した戦前の音楽家 | かとうしょうじ 加藤正治 | 1912年~1941年 | 愛知県 | 軍人 帝国陸軍軍人で、ノモンハン事変での航空戦で活躍したエース・パイロット | きりゅうゆうゆう 桐生悠々 | 1873年~1941年 | 石川県 | ジャーナリスト 戦前に、信濃毎日新聞の主筆として「関東防空大演習を嗤ふ」を執筆し、軍批判を行うなどしたジャーナリスト | こんうぉーる・りー コンウォール・リー | 1857年~1941年 | イギリス | 教職者 宣教師として来日し、聖バルナバ・ホームの創設など、ハンセン病患者のために尽力したイギリス人女性 | すずきももさく 鈴木桃作 | 1901年~1941年 | 静岡県 浜松市 | 映画監督脚本家 戦前に、映画『河豚綺譚』『雲霧仁左衛門』などを制作するとともに、脚本家集団「鳴滝組」の一員として活動した映画監督・脚本家 | たちやまみねえもん 太刀山峯右エ門 | 1877年~1941年 | 富山県 富山市 | 力士 板垣退助・西郷従道など政界の大物の勧誘で角界入りし、その怪力から相手を圧倒し第22代横綱となった明治・大正時代の大相撲力士 | とよだふゆ 豊田芙雄 | 1845年~1941年 | 茨城県 水戸市 | 教育者 日本の保母第1号で、女子高等教育や幼稚園教育の発展に尽力した戦前の教育者 | なかはらいちごろう 中原市五郎 | 1867年~1941年 | 長野県 駒ヶ根市 | 医者教育者議員 「日本歯科医学専門学校」(現:日本歯科大学)の創始した戦前の歯科医師 | にかいどうとくよ 二階堂トクヨ | 1880年~1941年 | 宮城県 大崎市 | スポーツ指導者教育者 「二階堂体操塾」(現:日本女子体育大学)を創設、何人ものオリンピック選手を育て、「女子体育の母」と称される体育指導者・教育者 | にしかわとらきち 西川寅吉 | 1854年~1941年 | 三重県 明和町 | 犯罪者 日本で最多とも言われる数多くの脱獄を繰り返し「五寸釘寅吉」の異名をとった脱獄犯 | のざきこうた 野崎廣太 | 1859年~1941年 | 岡山県 岡山市 | 実業家茶人 近代小田原三茶人の1人で、「中外物価新報」(現:日本経済新聞)、「三越呉服店」(現:三越)の社長などを務めた実業家 | はやしただたか 林忠崇 | 1848年~1941年 | 不明 | 藩主 幕末に、請西藩主であったが脱藩し、新政府軍と戊辰戦争を戦い、昭和初期には「最後の大名」と呼ばれた人物 | まえだみつよ 前田光世 | 1878年~1941年 | 青森県 弘前市 | 柔道家 欧米や中南米で無敗をほこり、「コンデコマ」の名でも知られる柔道家 | まつのくらら 松野クララ | 1853年~1941年 | ドイツ | 教育者 明治時代に、日本人保母の育成など、近代幼児教育の基盤整備に尽力したドイツ人幼児教育者 | みなかたくまぐす 南方熊楠 | 1867年~1941年 | 和歌山県 和歌山市 | 学者 粘菌の研究を始め、民俗学など多くの分野で研究を行ない、「知の巨人」とも評される学者 |
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1941年に生まれた人物については、「1941年生まれの人物」をご覧ください。
他の年については、「年一覧」をご覧ください。
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