大分県の武将・武士

概要

 大分県で生まれたり、大分県にゆかりのある武将・武士の一覧を掲載しています(五十音順)

 ※出身地は生まれた都道府県、出身地の市町村は現在の市町村、出没年は西暦で掲載しています。

  大分県の出身者・ゆかりのある人物全体については、「大分県の人物」をご覧ください。

一覧

名前出没年出身地概要
出身者

いちまたあきざね

一萬田鑑実
不明~1588年大分県
武将

大友宗麟に仕え、耳川の戦いで殿軍を務めるなど、数々の武功を挙げるが、大友義統により自害を命じられた戦国武将

出身者

うすきあきはや

臼杵鑑速
不明~1575年大分県
武将

大友氏の家臣として、外交面・軍事面で数々の功を挙げ、大友氏の三老の1人とも言われた戦国武将

出身者

おおともそうりん

大友宗麟
1530年~1587年大分県
大分市
大名武将

領土を拡大し最盛期には九州6か国を支配したが、島津家の侵攻の中、豊臣家の一大名となった戦国時代のキリシタン大名

出身者

おおともよしあき

大友義鑑
1502年~1550年大分県
大名武将

大友宗麟の父で、大内氏などと争いながら、豊前・豊後・筑後・肥後の4ヵ国に領土を拡大させるが、二階崩れの変で亡くなった戦国大名

出身者

おおともよしむね

大友義統
1558年~1610年大分県
大名武将

大友宗麟の嫡男で、島津氏の侵攻で危機に瀕する中、豊臣秀吉により豊後を安堵されるが、その後改易された戦国大名

出身者

かわじとしあきら

川路聖謨
1801年~1868年大分県
日田市
幕臣

幕末に海岸防禦御用掛として、ロシア使節プチャーチンと交渉を行い、日露和親条約を締結するが、江戸開城前にピストル自殺をした旗本

出身者

くりやまだいぜん

栗山大膳
1591年~1652年大分県
中津市
藩士

福岡藩2代藩主・黒田忠之と対立し、黒田騒動により盛岡藩預かりとなった福岡藩家臣

ゆかり

くろだよしたか

黒田孝高
1546年~1604年兵庫県
姫路市
大名武将

中国大返しなど、豊臣秀吉の天下取りを支えた戦国時代の大名・武将

出身者

さえきこれのり

佐伯惟教
不明~1578年大分県
武将

一時、西園寺家に仕えるが、大友宗麟の重臣として活躍し、耳川の戦いで討死した戦国武将

出身者

たかはしじょううん

高橋紹運
1548年~1586年大分県
豊後高田市
武将

大友氏の家臣として、北九州で戦うが、岩屋城の戦いで戦死した戦国時代の武将

出身者

たちばなどうせつ

立花道雪
1513年~1585年大分県
豊後大野市
武将

大友家に仕え、大友家の三宿老に数えられた、戦国時代の猛将

出身者

たちばなむねしげ

立花宗茂
1567年~1643年大分県
豊後高田市
大名武将

関ケ原の戦で西軍に加わり敗れ、改易となるが、その後、旧領を回復した名将・大名

出身者

たわらちかかた

田原親賢
不明~1600年大分県
武将

大友氏の家臣で、臼杵鑑速の死後に国政の大部分を預かるようになり、耳川の戦いにおいて全軍の総指揮を任され、大敗を期した戦国武将

ゆかり

つのくませきそう

角隈石宗
不明~1578年不明
武将

大友義鑑・大友宗麟2代に仕え、軍学などに通じ信頼も厚かったが、島津氏討伐に反対、死を覚悟し、耳川の戦いで戦死した戦国武将

ゆかり

ふくざわゆきち

福沢諭吉
1835年~1901年大阪府
評論家思想家教育者幕臣藩士

『学問のすゝめ』『西洋事情』などを著し、「慶応義塾」(現:慶應義塾大学)を創設した幕末・明治時代の思想家・評論家

出身者

ほあしばんり

帆足万里
1778年~1852年大分県
杵築市
学者藩士

『窮理通』『東潜夫論』などを著した江戸時代後期の儒学者

出身者

よしひろむねゆき

吉弘統幸
1563年~1600年大分県
武将

大友家の家臣として活躍するが、関ヶ原の戦いが起こった際に、黒田家との石垣原の戦いで討ち死にした戦国武将


 他の都道府県の出身者・ゆかりのある人物については、「人物の都道府県一覧」をご覧ください。

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